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松江地方裁判所 昭和35年(ワ)23号 判決 1968年2月07日

昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件原告

栂瀬清

<ほか一三名>

右一四名訴訟代理人弁護士 松永和重

昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件被告、同三四年(ワ)第八七号事件原告 母里財産区

右管理者伯太町長 柴田達雄

右訴訟代理人弁護士 和田珍頼

昭和三四年(ワ)第八七号事件被告 栂瀬清

主文

一、昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件原告らの第一次請求を却下する。

二、昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件被告は、昭和三二年(ワ)第四号事件原告らが別紙目録記載42山林の蔭伐地(その範囲は添附図面記載のとおり)に、昭和三五年(ワ)第二三号事件原告らが同目録記載1、2、4ないし11、13ないし17、19、20、22ないし32の各山林および3、12、18、21、33ないし41の各山林の蔭伐地(その範囲は添附図面記載のとおり)に立入り、立木、竹、柴、草、木実、自然薯その他一切の産物の採取等入会権に基ずく収益権を行使することを妨げてはならない。

三、同原告らの第二次請求中その余の請求を棄却する。

四、昭和三四年(ワ)第八七号事件原告の請求を棄却する。

五、訴訟費用のうち昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件に関して生じた部分はこれを五分し、その四を同事件原告らの、その余を同事件被告の各負担とし、昭和三四年(ワ)第八七号事件に関して生じた部分は同事件原告の負担とする。

事実

(昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件)

第一当事者の申立

一、原告らの求める裁判

(昭和三二年(ワ)第四号事件)

(一)  原告らが別紙目録記載42の山林について、岩石、土砂、立木、竹、柴、草、木実、自然薯その他一切の産物を採取する入会権を有することを確認する。

(二)  被告は原告らの承諾を得ないで、右山林を処分、使用収益し、又は他人をして使用収益せしめてはならない。

(右請求が認められない場合)

(三)  被告は原告らが別紙目録記載42の山林に立ち入り、岩石、土砂、立木、竹、柴、草、木実、自然薯その他一切の産物の採取等入会権に基ずく収益権を行使することを妨げてはならない。

(四)  訴訟費用は被告の負担とする。

(昭和三五年(ワ)第二三号事件)

別紙目録記載1ないし41記載の山林について、右(一)(二)(三)(四)と同趣旨の裁判

二、被告の求める裁判(昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件共通)

(一)  原告らの請求を棄却する。

(二)  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二原告らの請求原因(昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号共通)

一、原告らは島根県能義郡伯太町所在の母里部落の住民であるが、別紙目録記載の山林(以下本件山林という)は明治以前から同部落民すなわち旧母里村地内に居住する村民の共有たる村中入会地であって、同部落民は、岩石、土砂、立木、竹、柴、草、木実、自然薯その他一切の産物を採取する入会権を有する。

二、しかるに被告は原告らの右入会権は消滅したとして、本件山林を処分し或は造林をして、原告らが右入会権に基ずいて本件山林を使用収益するのを妨げている。

よって本訴におよぶ。

第三、被告の主張

一、本案前の主張

原告らは自ら認めているように、その主張する入会権の主体たる母里部落民の一部にすぎないから、本訴のうち、第一次請求については当事者適格を欠き不適法である。

二、原告らの請求原因に対する答弁と抗弁

(一)(イ)  請求原因一項のうち原告らが母里部落民であること、同部落民が明治初年頃まで本件山林に入会権を有していたこと(但し、その内容は後記のとおり)、現在蔭伐地(本件山林のうち、別表(一)記載1、2、4ないし11、13ないし17、19、20、22ないし32の各山林、その余の山林については添附図面記載のとおりである)に右入会権が残存していること、同二項のうち、右蔭伐地を除いた本件山林について、被告が原告主張のとおり使用収益していることは認める。

(ロ)  右入会権は家庭燃料のための柴草採取を主たる目的とするもので、原告らの主張する岩石、土砂、立木を採取する権限は包含されない。

(ハ)  本件入会権は原告ら主張のような共有の性質を有するものではなく、山林の地盤所有権は旧母里村に帰属し(同村が他村と合併したため被告財産区が設立された)、いわゆる公有地入会であった(詳細は後述)。

(二)  本件山林は右に述べたように被告の所有するものであり、且後述のとおり、前記蔭伐地を除いて、入会権は既に消滅しているから、被告は何ら原告らの権利を侵害していない。

(三)(イ)  本件山林は明治以前から公有地である。

明治二二年の町村制施行前の母里部落は東母里村、西母里村、母里町からなっていたが、これら町村は古くは荘屋、名主、年寄により、又戸長制施行後は正副戸長により統轄され、当時既に法人としての機能を具備していた。すなわち、これら町村は、町村制施行をまって初めて法人たる性質を獲得したものではなく、少くとも明治初年には既にその実質において、自然の一部落或は慣習上の町村から公法人としての「村」に移行しており、権利義務の主体たる能力を持ち、固有の財産を保有していた。本件各山林も斯様な意味で、これら町村の単独所有或は共有とされていたもので、部落民、又その集合体たる部落の総有に属するものではなかった。

仮に、当時本件山林がこれら町村の住民の総有に属していたとしても、少くも明治二二年の町村制施行による母里村の発足と共に同村の公有財産に編入され、その所有に帰するに至ったものである。爾来、本件山林は同村当局の管理に委ねられ、部落共同体的規制は全く受けていない。

以上要するに本件入会権は原告らの主張するような共有的入会権ではなく、母里村(現在は被告財産区)の所有する山林に対する地役たる公有地入会権である。

(ちなみに、明治初年発行の地券によると、本件山林の所有者は「村中」或は「村中他二町村」とされているし、土地台帳にも同様記載されている。又保存登記も母里村名でされている。これらの事実によると、本件山林が母里村の所有であることは明らかである。)

又仮に、原告らの主張のとおり、実在的綜合人としての母里部落の総有であったとしても、母里村は明治二二年四月その発足以来、本件山林を公有財産として、善意、無過失、平隠且公然に占有管理してきた。よって、右占有を開始した時期より一〇年間、遅くとも二〇年間経過することにより、本件山林の地盤所有権を取得時効により取得した。

(四)(イ)  母里村は発足と同時に村財政の基盤を安定確立させるため、その所有の公有林に造林を行い、もってその収益をあげようと計画し、明治三〇年母里村公有林施業計画をたてた。

そのため、当時本件山林について存在した入会慣行を整理する必要を生じ、右の造林計画を区長などを通じて全部落の村民に告げ、村民の協力を求めたところ、当初は反対もあったが、遂には全村民の支持するところとなり、本件山林に造林が実施されれば、入山を止め、もって入会権の行使はしないとの了解を得、明治三四年以来、村会の議決に基ずき、別表(二)記載のとおり本件山林に造林を実行してきた。

又母里村は造林地の保護委託制度を設け、希望部落に造林地の保護委託を委ね、その報酬として造林地における採草、薪採取等造林地手入れのため生じた産物の一切を与え、且成長した樹木を伐採処分したときは収益を分配することを定め、又山林の一部、すなわち耕地に隣接した部分で樹木を生長せしめては農作に支障をきたす一部地区を蔭伐地として残し、村民が自由に入会うことを承認した。

ところで本件入会権は柴、草採取を主たる内容とするものであるが、近時燃料或は肥料として下草の効用は著しく減退したのみならず、右の保護委託制度ならびに蔭伐地の使用収益権などにより、村民が下草、柴を採取する権限は残されていたから、母里村が右の造林を実施しても何の妨げもなかった。そうして前記のとおり造林を行い、別表(二)記載のとおり各部落と保護監守契約を締結し、更に更新して現在に至っているがその間、村民からの異議はなく村民は右造林の都度一区域毎に前記内容の収益権の行使を中止し以後これを行っていない。斯くて現在、本件山林の造林地に入会う者はなく、その管理処分は村の専権に属し、母里部落全域にわたり、往古の慣行による入会権は行使しないとの新しい秩序が村民の間に確立している。

(ロ)  以上で明らかなように、母里部落民は明治三四年母里村が造林するに先立ち、本件入会権を全員一致でもって廃止した。

(ハ)  仮に右の事実が認められないとしても、イ記載の事情のもとでは、入会慣行は解体消滅したというべきである。

(ニ)  一般に権利は相手方において、その権利はもはや行使されないものと信頼すべき正当な事由を有するに至ったため、その後にこれを行使することが信義則に反すると認められる特段の事情がある場合には、その権利は、いわゆる権利自壊の原則により失効するものというべきである(最高裁昭和三〇年一一月二二日第二小法廷、同三〇年一二月六日第二小法廷)。前記事実に照すと、原告らが入会権不行使の状態が長年月継続した現在に至り、入会権の行使を主張するのは、右の信義則に反する場合に該当するものである。よって、原告らの主張する入会権は既に右の権利失効の原則により消滅したものというべきである。

(ホ)  原告ら母里村民は前記造林実施とともに、造林地には入山せず入会権を行使していない。よって、別紙(二)記載の各営林年度(起算日は翌年四月一日)から二〇年経過することにより、右入会権は時効により消滅した。

第四、原告らの再答弁

一  本件山林は明治以前から、東母里村、西母里村、母里町の各住民により共同で利用収益されてきた村中入会地である。ところが、明治二二年町村制が施行され、右一町二村が合併して母里村となるや、同村はこれを村有財産として扱い、同村が使用収益し、被告主張のとおり造林を行ってきた。(本件山林が現在造林地と蔭伐地に区別され、蔭伐地の地番範囲および造林地との境界が被告主張のとおりであることは認める。)しかしながら、町村制施行により本件山林が村有(公有)財産になったと考えるのは誤りである。何故なら本件山林は実在的総合人としての母里部落の総有に属していたものであるが、この実在的総合人としての母里部落は町村制施行によっても何ら変ることなく存続しているからである。すなわち、町村制施行は母里部落の行政組織面にのみ関することで、生活協同体としての実質にまで影響することはないからである。従って行政村たる母里村が発足しても、本件山林は依然として実在的総合人としての母里部落の総有に属する。

二、被告の抗弁(前記四(ロ))を否認する。本件のような共有的入会権を廃止するには、入会団体の全構成員の意思の一致がなければいけないが、被告は本件山林に造林するについて、斯様な手続きをふんでいない。

三、その余の抗弁(前記四(ハ)(ニ)(ホ))も否認する。旧母里村は入会権者の同意を得ないで造林を強行し、その後造林地において入会権を行使する者に対しては、これにより村に対し与えた損害額の三倍に相当する金員を徴することにし、現在に至っている。又母里村内大木部落で渡辺武市とその相続人は昭和二六年頃まで造林地において入会権を行使していた。

このような事情のもとでは、被告が主張するように入会権が消滅する理由はない。

(昭和三四年(ワ)第八七号事件)

第一、当事者の申立

一、原告の求める裁判

(一)  被告は原告に対し、金四万四、三二一円と、これに対する昭和三四年九月一九日から完済に至るまで年五分の割合の金員を支払え。

(二)  訴訟費用は被告の負担とする

との裁判ならびに仮執行宣言。

二、被告の求める裁判

(一)  原告の請求を棄却する。

(二)  訴訟費用は原告の負担とする。

第二、原告の請求原因

一、被告は昭和二九年一〇月、原告所有の島根県能義郡伯太町大字東母里字大木二、五一〇番三通称もぐら谷において、原告所有の杉立木一九本(三一石八斗四升)を伐採した。

二、右伐木の価格は四万四、三二一円である。

三、当時、被告は右立木伐採のため森林法違反に問われ、刑事訴追を受けていたから、本件損害賠償につき、昭和三〇年一二月五日、被告は原告に対し、右裁判において被告の有罪が確定すれば直ちに損害金を支払う旨約し、同三四年四月最高裁判所において被告の有罪が確定した。

よって、右損害金とこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和三四年九月一九日から右完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いを求める。

第三、被告の答弁と抗弁

一、請求原因一項中、被告が原告主張のとおり杉立木を伐採したことは認めるが右山林は被告ら母里村民の入会山であるから盗伐ではない。

二、同二項は否認する。

三、同三項中、原告主張のとおり、裁判が確定したことは認めるがその余は否認する。

四、仮に原告主張のとおり、被告の右伐採が盗伐にあたり、原告に対し、損害賠償の責に任ずるとしても、原告は昭和二九年一〇月、被告が右伐採を行ったこと、およびこれがため原告に本件損害が発生したことを知っていたのであるから、その時から三年間経過することにより、原告の損害賠償請求権は時効により消滅した。

よって原告の本訴請求には応じられない。

第四、原告の再答弁

原告が被告主張の日時に、被告が本件立木を伐採し、これがため、原告に損害の発生した事実を知っていたことは認める。しかし本件損害金の支払については前記のとおり履行期について特約があったから時効により消滅しない。

証拠≪省略≫

理由

(昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件)

第一、本案前の問題

一、入会権を考える場合、入会権自体の管理処分権は個々の構成員の総体たる入会団体に帰属し、各構成員は入会権に基ずく収益権を行使する権限を有するに過ぎないというべきである。従って、右収益権の行使と直接関連なく、専ら入会権の管理処分に関する事項については構成員全体で決すべきで、訴訟を追行する場合には入会権者全員で行う固有必要的共同訴訟でなければならない。

本訴における原告らの第一次請求はいずれも、右にいう入会権の管理処分権に属するものであるから、これら訴は固有必要的共同訴訟であるといわねばならない。しかるに原告らはいずれもその入会団体であると主張する旧母里村部落の一部の構成員に過ぎないことは当事者間に争いがないから、原告らは本訴中、右第一次請求について、原告適格を欠くものといわざるを得ず、従って右訴は不適法である(しかし、入会団体の各構成員が自己の収益権に基ずき、その行使を妨げる者に対して、その妨害排除を求める権限を有することはこれを容認すべきであるから、本訴の第二次請求は適法である)。

第二、本案の問題

一、本件山林における入会慣行の形態について考察する。

本件山林が往古から入会山として、母里部落(東母里村、西母里村、母里町)各村民により使用収益されてきたこと、本件山林が現在造林地と蔭伐地に区別され、蔭伐地においては、原告ら母里部落民に、竹、柴、草、木実、その他の産物を採取する入会慣行が存在していること、本件山林のうち、別表(一)記載1、2、4ないし11、13ないし17、19、20、22ないし32の各山林が蔭伐地であること、その余の山林には造林地と蔭伐地が併存するが、その範囲および境界は添附図面に記載されるとおりであることは当事者間に争いがない。

二、町村制施行前の本件山林の所有利用関係

町村制施行に至るまでの本件山林の所有利用関係は明白ではないが、証拠によると次の事実が窺える。

母里部落は旧母里藩の支配を受け、部落所在の山林林野の一部は藩有林で、その管理統制に服していたが、その余は民有林として、個人所有の山林以外は部落民のための入会山として解放され、部落民はこれら山林において、柴、草、木実その他の産物を採取していた(≪証拠の表示略―以下同じ≫)。

而して、裁判所に顕著な太政官布告第一一四号、第一二〇号によると、明治二年版籍奉還により諸藩所領の直轄林野は一部官有林に編入されたが、多くは民有とされたため、時の政府は林野所有権を確定し地租改定をはかるため、同五年地券制度を採用し、同年七月官有地以外の林野に地券を交附したが、入会山のような村持林野の取扱いに苦慮し、翌六年には公有地地券を発行し、一般公有地のほか、村受公有地の存在を認めたが、翌七年には公有地制度を撤廃し、全ての地所を官有(四種類)、民有(三種類)に二分することにした。そのため、右の公有地とされた林野も官有地か民有地に区分されるに至ったが、官有地に統一されない、村持林野は第二種民有林(人民数人或は一村、或は数村所有の土地)として扱われ、地券を交附された。

ところで、当時の村は行政単位としての側面が次第に確立しつつあった。

すなわち、幕藩体制下の村は「行政単位としての村」の面と「生活協同体としての村」の面とを備へていたが(入会山たる村持林野の管理統制は後者の意味における村により行われた)、明治以来、政府の方針により、旧村が地方自治組織として抽象的公法人化する傾向が強まった。このことは裁判所に顕著な当時の一連の太政官布告(明治四年一七〇号、同五年一一七号、同一〇年一四六号、一三〇号、同一一年一七号ないし一九号、同一七年四一号)に照して明らかである。

しかしながら、右の変遷によって、旧村の生活協同体としての機能が埋没し去ったことを意味するわけではなく、前記の村の二面性が分離して観念されてきたに過ぎない。このことは、前記のとおり、当時の政府が一度公有地制度を認めながら、翌年にはこれを撤廃してしまった事実に鑑みても明らかであろう。してみると、当時の、村民が自由に入会い使用収益していた村持林野がこれら村民を離れて、抽象的公法人たる村の所有に属していたと考えるのは適切ではない。

これを本件に即して検討すると、明治九年改正地券には、本件山林のうち、二、五七五番、二、五二三番、二、五一七番、二、四九一番、二、四九二番、二、五一〇番の各山林の所有者として「村中他二町村」と登載されていること、土地台帳にはこれら山林は「村中」所有として登載されていること、又当時作成されたものと推認される山林野山実地調野帳によると東母里村、西母里村共有地とされていることが認められるし、右山林以外の本件山林も同様の取扱いを受けたものと推認できる。してみると、本件山林は明治初年の土地官民有区別の際には前記の第二種民有林として処理されたものといえよう。そうして、地券、土地台帳に使用される「村中」という用語は、村という団体の所有であるとともに、その権利は家を通じて構成員である村民自体にも分属することを示すものと理解すべきであるし(通常の用語例に従うと、村中入会という言葉は共有たる性質の入会権を意味する)、又野帳における共有という用語も現行民法上使用される概念と異ることは明らかである。

以上の考察ならびに、当事者間に争いのない、本件山林は明治に至っても母里村各部落民が自由に使用収益していた事実を併せ考えると、本件山林は明治以前から母里部落民のための共有たる性質の入会山であって、明治初年に至っても、その地盤所有権と入会権は別個に観念されることなく、両者は一体として村民の総体たる部落に帰属するいわゆる部落の総有財産であったものといわざるを得ない。

三、旧母里村時代の本件山林の管理利用

(一)  明治二二年の町村制施行により、東西母里村および母里町は統合され、東母里村は母里村大字東母里、西母里村と母里町は同村大字西母里となって、ここに母里村が発足したこと、本件山林はいずれも同村名で保存登記をされたことは当事者間に争いがない。

(二)  下記証拠によると次の事実が認められる。

(イ) 前記のように、母里村が発足して後も、従来の入会慣行は継続して行われ、村民は依然として本件山林に入山し、下草採取をするなど使用収益していたが、明治三四年に至り、母里村の財政基盤確立と治山治水の目的のため、村有山林に造林を行いもって収益をあげる計画が建てられ、同年村議会において、入会山として比較的利用価値の乏しい山林、大字西母里字卯月一、九六六番地のうち八町歩と六町歩、大字東母里字大谷二、三一八番地のうち四町歩他二山林について、県から奨励費を受けて造林(植樹又は天然造林)をすることが議決され、同議決に基き、村の直轄事業として造林が施行され、東母里所在の大木部落では村民四一名が植付人夫として稼動し賃金を得たし、同三八年には字大谷二、三二一番地が天然造林地とされ、村の直営で保護育成された。

次いで、同三九年、村会の議決による母里村有林保護監守規定に基ずき、母里村は右の造林した各山林の保護監守(造林地の保護育成と不当に立木が伐採されないよう看守する)を前記卯月部落(区)他五部落に委託し、その報酬として、平時は下草、落葉の採取を認め、伐木(主間伐)の際は、杉、檜林については百分の一〇、櫟林については百分の五の割合で純収入を配分する旨の保護監守契約を締結した。

又、同村会は同四三年、公有林野補助規則を制定公布、四四年には、前記造林に続き、東母里字福寄二、四〇七番のうち二ヶ所(二町一反一畝七歩)他一山林について、造林を議決し、施業は希望部落に委託し、併せて、同部落と保護監守契約を結び、報酬として、伐木収益の百分の五〇を与える旨約して造林を施行した。ひき続き、同四五年、右同様の方法で東母里字神宮寺二、一三六番のうち一町三畝一〇歩他二山林に造林を実施した。

以上のように明治年代には、母里村は基本的には村有林の適地全域に造林するとの構想を持ちながら、実際にはこれが明文化されず、必要に応じてその都度、議会の議決を得て造林を行うものであったが、大正四年に至り、同村は造林政策の基本綱領というべき造林条令を制定、村有山林の適地(但し、従来の慣行により蔭伐をなし、及び柴草、薪炭採取のため一般村民の共用に充うべき土地山林などを除く)全部に造林を実施する、造林は人工、天然の二種とし、人工造林は毎年二万本以上、村費を以って杉、扁柏、松、櫟を植付け、その管理方法などについては村会議決により定めるとの構想を明らかにし、本件山林など全四七山林について、造林予定地を特定し、天然、人工造林の区分け、植樹の種類、保護監守を委託する部落をも予定するなど、細目にわたって造林計画を完了し、更に造林保護規程により、造林地の保護監守は地区を定め、部落又は個人に委託するが、特に造林作業を委託した部落に対しては優先的に保護監守を委ねる、保護監守の報酬として、委託期間中は下草、落枝、樹実、菌茸等(但し地力の減耗を生じない限度)を無償給与する、主間伐の場合、天然造林は百分の二〇、人工造林は百分の三〇の割合で収益を配分するとの保護監守契約の内容を確定し、次いで同六年、県林業技手の調査に基ずき母里村公有林施業要領を作成し、ここに母里村の造林計画は完成した。そうして、右のように、本件山林を含む入会の対象たる山林を造林地と蔭伐地に分ち、蔭伐地には入会慣行を存続せしめたため、造林地と蔭伐地の境界を明確ならしむるため、大正六年一二月、公有林整理に関する指示と題して母里村内全一〇区の監視区域を定め、併せて蔭伐地を東北平距七~八間、西南平距一三~一五間に制限し、これを区長に伝達し、更に同一三年、同村村会は「本村有山林に対する本村住民共同使用の旧慣を廃す。但し採草蔭伐地は之を共用することを得。」旨議決、本件山林など四二山林について、それぞれ林地、採草蔭伐地、余地の区分を確定し、村長名をもって区惣代に対し、天然造林地における蔭伐地の範囲を分明ならしめるため、境界杭、或は穴堀りをすべき旨指示した。

(ロ) ところで斯様な母里村の造林政策に対して、母里村民は当初これに強く反対する者が多く、村会議員、区長その他各地区有力者が説得に努めたが、容易に賛同を得ることができず、造林施業、或は保護監守を請負う部落は少なかった。しかしながら、村は前記のように蔭伐地における入会慣行の存続を承認し、又造林地においても保護監守部落には下草採取その他の従来の入会慣行に代るべき若干の権限を認め、且伐木利益も配分するとの政策に依ったため、これら村民の反対意見は漸次影をひそめ、遂には各部落競って、造林施業を請負い、又保護監守契約を締結するようになった。ところが昭和に至り、偶々近隣の村で村民による入会権確認の訴が提起され、又、母里村においても、山林の払下げをめぐって争いを生じ、不服を唱えた加藤為十が本件山林について入会権の存在を主張し、訴を提起する気配があったため、村は昭和四年三月(一部については同六年三月)、村民から「従来自家用薪炭材及柴草採取のため母里村公有林に立入ること御許容相成り候処、これが造林事業計画確立せられしより以来、右自家用薪炭材及柴草採取を禁止せられ、拙者等も之を厳守し爾来解放地を除く母里村公有林何れにも総て一切立入らざること相違無之候」との覚書を徴したが、右加藤他五名の者はこれに応じなかった。しかしその余の村民は当時村大会を開いて、右覚書の趣旨を確認し合った。又加藤も希望地の払下げを受けて訴訟を提起するには至らなかった。そして、その后は各部落とも、蔭伐地の範囲の拡大、保護監守報酬の増額、或は保護監守契約の締結が各部落均等に配分されるよう求める以外に、本件山林のこのような使用方法についての異議はなくなった。

(ハ) 本件山林の造林は次のようにして施行される。

すなわち、村会において造林が決定されると、右決定は村会議員区長らを通じて各部落に伝達され、希望部落を募って、村会の議決を経たうえ、これに造林施業に保護監守を委託し、(保護監守契約書には部落民が連署する)受託部落は地ならし、或は測量をしたうえ、苗木を村から供給されて植付け、造林施業后は下草刈り、枝打ち、間伐など一切の管理作業を行い、又間伐の際は伐木の価格から部落民の右作業労賃を控除した価格で払下げを受けるのが通例である。

そうして、右のように造林が実施されると、その山林はいわゆる「鎌止め」となり、従来これに自由に入山して使用収益していた部落民は保護監守部落民を除いて、入山することは禁止される(仮令造林予定地でも実際に造林されるまでは入山でき使用収益することが許される)。尤も当該山林に造林されたことは区長を通じて各部落に通報する仕組にはなっていたが、必ずしも徹底せず又天然造林の場合は蔭伐地との境界が定かでないため、造林施行后も入山する者がいたので場所によっては鎌止め札を掲げ、又杭打ち、繩張りをして造林地を明確に公示した。のちには造林地で伐木したものに対してはその価格の三倍の弁償金を徴収する制裁も行われた。

(ニ) 母里村は大正年間にいたり、従来入会の対象とされた山林の一部を、村会の議決を経て、村民の一部に賃貸し、又個人所有に分割し、一部を公道敷地にあてた(その代償金額を村基本財産として蓄積した)こともあり、又、造林地に植林した立木が成長すれば伐採して、これを村会の議決により競争入札で村民その他に公売し、その収益は前記保護監守契約の内容にしたがい、一部は村が一部は保護監守部落に配分され、以上のような本件山林の使用方法に対して村民の異議はなかった。

四、昭和二七年旧母里村は安田村、井尻村と合併し、伯太村(のちに伯太町に昇格)となったが、本件山林は伯太村財産には統一されず、旧母里村を区域とする被告財産区が設立され、伯太村長の管理のもとに入った。而して、旧母里村時代の造林事業は継続され、従来と全く同じ方法でこれを遂行しており、本件土地の使用収益の方法は何ら変っていない。

五、斯くて本件山林における造林は明治三四年以来、別表記載のとおり、遂行され、且保護監守契約が締結され、現在造林地に入会う部落はない。

六、町村制の施行が、従来の村を制度的に否定するものであることはいうまでもない。しかし、旧村の生活協同体としての実体は町村制施行后も部落或は大字として存続し得た(現に本件においても前認定のとおり、造林が実施されるまでは、町村施行前と同じ形態で入会慣行は続いている)。従って、当時の政府の方針が町村制施行に伴い、従来の部落有財産を町村有財産に統一するものであったことは疑いないが、町村制施行により、直ちに、旧村の総有に属した財産が町村の公有財産に編入されたものと考えるのは妥当でない。このことは、明治二一年六月一三日内務省訓令が新町村に統合されなかった旧村持林野をほぼ従来の形態で所有することを承認していたことからも明らかである。

ただ、この時期における部落有財産に対する理解は不充分であったからその取扱いも曖昧で、町村に統一されたもの、一部落有財産(財産区)として町村長の管理におかれたもの、部落の私有財産と異らない形態で存続したものなどその内容はさまざまである(全国的に、部落有財産が町村有財産に統一されるのを嫌い、これを防ぐため、財産区を設定するもの、部落代表者、或は部落民全員の記名共有として台帳に登録し、保存登記をするなど、種々の運用がなされた。)。

従って、本件山林における右の区別は結局、町村制施行后の入会慣行の態様、山林の管理利用形態によって決する他ない。してみると、本件山林は町村制施行の際、その取扱いについて論議があった形跡はなく、もとより、当時既に制度化した財産区を設立したわけでもなく、大正年間に至り、村名で保存登記をしたこと、村は前認定のとおり明治三四年以来、村有財産として管理し、造林しており、山林の賃貸し、処分をいずれも村会の議決により行い、これら山林の使用方法について、村民に異議はなかったこと、又村民らにおいては、本件山林を公有のものとして認識していたとも推認でき、斯様な事実を考慮すると、本件山林は母里村発足の際、同村有財産に編入されたものと考えるのが相当である。

以上要するに、本件山林は町村制施行までは生活協同体としての東母里村、西母里村、母里町の住民全体が利用収益し且管理していた共有的入会地であったが、明治二二年母里村発足により同村有財産に統一され、以来地役たる入会地になったものといい得る。

而して右町村制施行后も、明治三四年頃までは、母里村々民は従来どおり、本件各山林に入山して使用収益していたが、母里村が造林を開始するや、村民は蔭伐地を除いて、本件山林から自由に柴、薪、下草などを採取することが禁止され、ただ同村と保護監守契約を締結した部落住民だけがこれら採取の権限を有するにとどまり、又立木も村が公売によって処分し、その収益は村と保護監守部落が配分し、のちには元来、入会の対象であった山林の一部は村民に賃貸され、更には個人所有に分割されたが、これらについて村民に格別の異議がなかったことは前認定のとおりであるし、前記三、(二)、(ロ)(ニ)、四、五の事実によれば村民は以上のような本件山林の使用収益の方法の改変を承認支持していたものといえよう(尤も前記三、(二)(ロ)の覚書に署名をしなかった者は五名であるが、≪証拠省略≫に照すと、これらの者も部落惣代として前記保護監守契約を締結し、又造林組合員として造林に参加し、且立木公売の際は入札してこれを買い取っていることが認められるし、又、≪証拠省略≫を総合すると、右五名の内渡辺武市一家では大正末頃と昭和一〇年頃の二度にわたり、自ら保護監守を委託されていた山林の立木を伐採したこと、且近年にいたるまで、自己の家敷周辺の私有山林或は蔭伐地を越えて、造林において、木の実、竹、柴などを採取していたことは認められなくもないが他方、同人はかつては村会議員として母里村の造林を支持し、村有林森林委員として、且大木部落代表者として、村と保護監守契約を締結し、又自らも家敷周辺の造林地の看守を引受けるなど、前記の造林施業に協力していた事実を考慮すると右は同人において、旧来の入会慣行が存続していることを根拠として入山採取していたものとは認め難く、右認定に反する≪証拠省略≫は信用しない)。

ただ≪証拠省略≫によると、原告栂瀬清が昭和二九年に至り、本件山林のうち大木モグラ谷所在二五一〇番の三の立木を伐採したため、森林法違反に問われ、刑事訴追を受け、その頃から同原告において、本件山林は旧母里村民の共有的入会地であるとの主張を始めるにおよんだが、右刑事事件の真因は、大木部落においては、造林が進捗するにつれ、蔭伐地が狭となり、同部落所在の造林地の保護監守を担当する西市部落と対立するようになり、折しも被告財産区が地元部落の反対を押し切って、右モグラ谷の山林に造林を敢行したため、同原告は右造林地区は蔭伐地であると主張して、同所の立木を伐採したことにあり、同事件における同原告の主張は専ら右伐木地区が蔭伐地の範囲に属するということに尽きるのである。

以上の事実に照すと明治二二年、町村制施行后昭和二八年に至るまでの間、入会団体たる旧母里部落の本件山林(但し蔭伐地を除く)に対する統制は次第に母里村に移行し、土地の使用収益の方法も内容も一変し、昭和二九年に至る頃までの間、母里部落民からの異議もなかったのであるから、慣習の変化により、入会地毛上の使用収益が入会団体の統制の下にあることをやめるに至ったといわざるを得ない。

してみると、旧母里部落民が、本件山林につき有していた地役の性質を有する入会権は蔭伐地を除き昭和二八年頃までの間に漸次解体消滅したものと認めるのが相当である。

なお、被告は本件入会権は明治三四年頃、全村民一致をもって廃止されたと主張するが、これを認めるに足る証拠はない。

七、蔭伐地の範囲、ならびに同地に旧母里部落民を入会団体とし、竹、柴、草、木実、自然薯などの採取を目的とする入会慣行が存続していることは当事者間に争いはない。

而して原告らは、更に同地において、岩石土砂、立木をも採取する権限があると主張し被告はこれを争うのでこの点について判断する。

前記各認定事実に従うと、蔭伐地とは、山間部の耕地に接続する一定範囲の山林をいい、此処に造林をしなかったのは耕地が山林の樹木の蔭になって農作物の成育が妨げられるのを防ぐためである。従って、蔭伐地に所在する立木は、旧母里村或は被告において特に何らかの規制をしていない以上村民らが自由に伐採できる筋合である。然るに旧母里村および被告は前認定のとおり、造林地の立木については、村会等の議決により公売するなど管理統制しているが、蔭伐地の立木については放任している。従って、蔭伐地の立木は村民らの自由処分に委ねているものといわざるを得ない。

又、≪証拠省略≫によると、かつて一部村民が本件山林から岩石、土砂を採取していたことは認められるが、右は果して入会慣行として一般に是認されていたものかどうかは疑問であるのみならず、≪証拠省略≫によると、本件山林から採石する場合には村と採石契約を締結したり、或は村の許可を要したことが認められるし、前記のとおり、本件山林の地盤所有権は旧母里村時代、既に同村に帰属したものと考えるべきであるから、これら事情を併せ考えると、蔭伐地において、原告ら村民が土砂、岩石を採取する権限は有さないものと考えるのが相当である。

八、以上要するに、本件山林に対し、原告ら旧母里村各部落民の有していた入会権は、蔭伐地を除いて消滅し、右蔭伐地においては、立木、竹、柴草、木実、自然薯などを採取する入会慣行が存続していることになる。

してみると、被告は原告らが右蔭伐地において、立木を伐採採取する権限を争い原告らの有する右収益権の行使を妨げていることは明らかであるから、原告らは被告に対し、これが妨害禁止を求め得るものといわなければならない。

(昭和三四年(ワ)第八七号事件)

請求原因事実一項は当事者間に争いなく、≪証拠省略≫を総合すると、被告が本件杉立木を伐採した場所は被告らに収益権のない前記造林地であると認められるところ、原告は本件損害が四万四、三二一円に相当すると主張するがこれを認めるに足る証拠はない。すなわち、原告は右損害を、原告が昭和三一年に杉檜三〇〇本を売却した際の価格石当り約一、五〇〇円に基づき算出しているが、右は昭和三一年における杉材の他檜をも含んだ価格であるから、これを以って、直ちに本件損害算定の基準とするのは適切ではない。

しかしながら、被告本人尋問の結果によると、被告は右伐木を三万円で売却処分していることが認められるから、原告の蒙った損害は少くも三万円を下ることはないというべきである。

よって、被告主張の消滅時効の抗弁について判断するに、被告が昭和二九年一〇月に前記伐採を敢行し、それがため原告に本件損害が生じたが、右の事実がその直後、直ちに原告に判明していたことは当事者間に争いのないところ、原告主張にかかる被告の右賠償義務の履行期について、格別の約定が取決められたことを認めるにたる証拠はないから、原告の本件損害賠償請求権は右日時から三年を経過した本訴提起前である昭和三二年一〇月には時効により消滅したものといわざるを得ない。

よって原告の請求は理由がない。

(結論)

以上の次第で、本件訴中、昭和三二年(ワ)第四号、同三五年(ワ)第二三号事件原告らの第一次請求はいずれも不適法であるからこれを却下し、同原告らの第二次請求は前記のとおり、蔭伐地における立木、竹、柴、草、木実、自然薯その他の産物の採取等入会権に基ずく収益権の行使の妨害排除を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、同三四年(ワ)第八七号事件原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 広瀬友信 裁判官 蒲原範明 林五平)

<以下省略>

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